このことが、今朝ふいに意識の最前面にはりついて離れません。
息子の弁当つくりながら、娘のご飯しながら、コン太をよしよししながら。
いつの間にか、
「取り返しがつく」って・・・
と意識がぐるぐるまわっていました。
人生、というものの流れにおいて、とまっているものはない。
「起こったこと」は、その瞬間にしかないこと。
そういう意味では、取り返しのつくものはないんじゃないか。
それだけ、取り返しがつくという言葉を簡単に口にしたらいけないと思えた。
「取り返しがつく」と言う言葉を
気持ちを支える言葉につかうことはあるかもしれないけど、
気休めにしてはいけない気がする。
それは、自分にも相手にも。
努力する前から、向き合う前から、
気を休める場所を携えていたら 前には進めないんじゃないかな。
よほど強い人ならあえて携えて、そこへよっかからないようにと
心の筋トレをする人もいるかもしれませんが。
今の私には、その余裕はないけど。
やり直す努力によって得るものは、元の出来事とはちがう「新たな今」 。
過去にあったことを「取り返したい」「やり直したい」と、
意識しながら「今」という瞬間瞬間を踏ん張ったり、進んだりすることで
生み出される。
元の出来事は、元の場所にある。
元の場所で、未来の自分が道を見失うことないように踏ん張ってくれてる。
再生のチカラによって、生み出された「あらたなもの」「よりよきもの」
を今に感じるとき、
そこにいるのは、
再生のチカラ・生み出す力を持った、
力強くなった自分。
まったくの同じもの・状況を取り返すことはなくても、
過去の傷から目をそらさないで向き合う先には
光増す未来が待ってると思います。
そのために、情報はみたまという空間に刻み続けられているのかも。
光増し、光増し・・・
いずれすべてが、一つの『ヒカリ』になる・・・かな・・・
ん~、ここまでの表現で精一杯です。
お付き合いありがとうございました(^^)